宇部興産物語
宇部興産の歩みを写真で紹介するコーナー。 第3回目は、「硫安の初出荷」です。
この写真は、昭和9年(1934年)の硫安初出荷の様子です。「宇部の石炭を利用して硫安を製造する」との構想から、7年目のことでした。近代化学工業を地元に取り入れるにあたっては、製造特許の他社による独占や膨大な資金が必要になるなど課題が多く、「宇部の事業は宇部人の手と資本で」という伝統から初めて離れ、国内外から人・技術・資本を集めることで成し遂げました。このように工夫を重ね、ようやく手にした硫安でしたが、すぐに設備のトラブルが発生し運転を停止、本格操業はその2か月後になりました。
こぼれ話
宇部興産の化学事業の事始めは、硫安の製造(昭和9年)ですが、なぜ硫安だったのでしょうか。その当時、宇部やその周囲の中国・九州地域の大半は農村地帯でしたが、大正の終わりから続く深刻な不況により、多くの農村は著しく疲弊していました。国内に硫安を製造する会社はあったものの、作物を育てるのに欠かせない肥料(硫安)の供給量が需要を大きく下回っており、「農村困窮化の救済は、公平な肥料の分配にあり」との首相演説がなされるほどでした。その後、政府による化学肥料の統制が行われるなど、農村対策が進められました。創業者・渡辺祐策は、自分たちも農村対策に少しでも役立ちたいと願い、宇部の石炭を利用して硫安を製造しよう、そして国内供給に貢献しなくてはならないと考えたのです。その実現には、技術・特許・資金面で乗り越えるべき課題は大きく、宇部炭から硫安誕生まで7年の歳月を要しました。生まれたての硫安を手にしたとき、渡辺は病床に臥していました。「おお、そうか。めでたい。大成功。万歳」と大いに喜び、その目には涙が光っていたといわれています。その元気な様子は周囲をほっとさせたものの、この5日後、渡辺はこの世を去ることになります。
それから80年が過ぎました。現在の硫安生産量は1,340千t/年、日本・タイ・スペインの三極体制でお届けしています。この初出荷の写真は、化学会社としての歩みをはじめたことを示す、記念すべき1枚です。