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「翼」第9号:地域の顔


地域の顔

左が秀太郎さん、右が啓一郎さん 左が秀太郎さん、
右が啓一郎さん
石井秀太郎さん 石井秀太郎さん
石井啓一郎さん 石井啓一郎さん

今回は、弦楽器製作者の石井秀太郎氏とお父様でバイオリニストの石井啓一郎氏です。

-弦楽器製作者とは?

そのまんまですが、バイオリンやチェロなど弦楽器を作る人です。日本国内には、弦楽器製作者が200名以上いると言われていますが、9割以上は、楽器の修理を主な生業として、副業的な感じで製作もするといった状況です。イタリアでは、製作と修理とは基本的に分業で、例えば、私の師匠なんかは製作しかしません。外国製がよいというイメージが先行しがちで、日本人が作った弦楽器は売れにくく、日本では、あまり良い商売とは言えないかも知れませんね。私の場合は、製作を中心に修理も行っているという感じですので、ちょっと珍しいと思います。

-弦楽器製作者としての使命

バイオリンでは、約300年前につくられたストラディバリウスがひとつのベンチマークとなっていて、ワインみたいに古いものが良いとされる傾向があります。確かに古い楽器の音色には熟成された良さもありますが、非常に高価ですし、そもそも優れた楽器は、新しい時から良い音色を奏でるものです。つまり、新しい時に良い音色が出ない楽器が古くなったから良くなったなんてことは無いわけです。恐らく、出来たてのストラディバリウスも良い音色を奏でていた筈です。私は、新しくても「こなれた感じで弾きやすく」演奏者のイメージに沿って良い音色を出せる楽器を「相応の価格」で提供することが、製作者である自分の使命だと思っています。

-演奏者から見た秀太郎氏の作品

父の啓一郎です。私は、6歳の時に友人の家で偶然バイオリンと出会い、以降60年以上バイオリンを弾いてきました。1973年に日本フィルに入団し、プロとして6,000回以上公演してきましたが、演奏中、特にソロの場面では、緊張感がもの凄い。これは、弾き手じゃないと分からないかも知れませんが、そんな緊張感の中で楽器に助けられる瞬間があるんです。まるでバイオリンが弾き手をリードするかのように手を差しのべてくれる。音の嗜好性は確かにありますが、古くても新しくても演奏者を助けてくれる楽器は、やはり出来が良いんですよ。演奏会では、息子のバイオリンも使いますが、気に入っています。

こぼれ話

石井啓一郎氏とバイオリン
石井啓一郎氏のお父様は、宇部興産に勤務しておられ、宇部好楽協会のお手伝いもされていたので、幼少期から音楽に触れる機会は多かったようです。運命の出会いは、6歳の頃。同じ社宅の友人の家でバイオリンを見つけてしまいます。因みに最初は「出来の良いおもちゃ」だと思っていたそうです。実はこの時、他の友人も入れた6人で一緒にバイオリンを始めました。1番長く続いたのが、啓一郎氏で60年。次が10ヵ月…ご本人は、「別にバイオリンじゃなくても良かったんだけどね」と仰いますが、やはり、バイオリンが肌に合ったのでしょう。以降、現在に至るまで、バイオリンと相思相愛の関係が続いているそうです。日本フィル退団後も「ミュージックキャンプ」や「リサイタル」など精力的に活動されています。
石井秀太郎氏とバイオリン
「家族の中で僕だけが芸大出身じゃないんです。」バイオリニストの父とピアニストの母を持つ秀太郎氏。幼少期から父の奏でるバイオリン、母の奏でるピアノを聴きながら育ち、ご自身もチェロを弾かれるのですが、意外にも大学2年生までは、「普通の仕事」をしたいと思っていたそうです。転機は20歳の頃、就職を見据え「本当にやりたいことは何か」を考え、真剣に自分と向き合ったそうです。ものづくりに興味があり、啓一郎氏の存在も少なからず影響したとは思いますが、弦楽器製作の道を志すことを決意します。この時「両親は全く反対しませんでした」とのこと。その後、啓一郎氏と親交のあった名工、重野汎氏に弟子入り。イタリアに渡り巨匠ジャンパオロ・サヴィーニ氏のもとでも学びました。現在は、かつて祖父母が住んでいた家を工房に改造し、弦楽器製作、メンテナンスに加え、子育てにも奮闘しておられます。

担当者から一言

石井弦楽器工房にお邪魔してインタビューしたのですが、伺った時は、ちょうど啓一郎氏のバイオリンを秀太郎氏が調整しておられる最中でした。テールピースの留め具に不具合があったようで「啓一郎氏が【症状と希望】を説明→秀太郎氏が【調整】→啓一郎氏が弾いてみる」という作業を繰り返していたのですが、とにかく、その雰囲気が良いんです。親子、しかもお互いがプロという関係が醸し出す空気に、つい挨拶も忘れて見入ってしまいました。何だか羨ましいですね。
(担当:吉永 龍男)